我が家の猫は、3匹とも拾ってきた猫。

二男が高校生だった頃のこと。

近くの公園に数匹の子猫が捨てられているのを、見てみぬ振りしていた。

お金がかかるからこれ以上飼う気などなかったし、その少し前に愛猫を老衰で亡くしたご近所さんの悲しみが伝わってきていたので尚更。もし、我が家に同じことが起きたらを思い、人間が先か2匹の猫が先かも含め、何とはなしにドーンとのしかかるように身につまされていた。だから公園から気を逸らし避けていた。

でも、そんな思いを知らない高校生の二男は、皮膚がかぶれて汚く異臭を放つ上に、蚤がウジャウジャのやせ細った子猫を段ボールに入れて連れてきてしまった。先輩猫2匹に蚤がうつらないように、翌日かかりつけ医に連れて行くまで箱ごと二男の部屋に隔離し、世話をさせた。

1匹目を連れてきたのも二男だったので、その責任をとり今後は猫たちの世話をしっかりするようにきつく言い渡したが、返事は「分かった」と、いつものように軽かった。どんな由来か知らないが二男は勝手に「ジュリ」と呼んでいた。その呼び名になぜか家内も賛同した。

翌日病院で、全身のかさぶたを取るためと蚤を駆除するため、全身どっぷりと油まみれにされマッサージされ、かさぶたの部分は毛の抜けた地肌があらわになりきれいになった。同時に蚤も窒息し見事に全滅した。さらに半年後には、先輩猫と同様に避妊手術、予防接種もした。でも、猫エイズのキャリアであることを告げられた。ジュリは、2016年10月現在、健康である。

 

ほぼ毎日、団地の山側にある農道を通る。誰も見ていないから、捨てやすいのか年に数回、捨て猫を目撃する。

たった今捨てられたのだろうか。真冬の街灯のない農道の真ん中に数匹の猫の塊。危うく轢いてしまうところだった。つい数時間前までは明るく暖かい場所にいたはずだ。急激な環境の変化にじっと寄り添い兄弟で暖をとるだけが関の山なのか。このままでは別の車に轢かれるだろう。一面畑だらけの農道で車のライトに怯えじっとしている。ゆっくりと近寄る。でも一目散に草むらに逃げ込む猫たち。もうどうすることもできない。

これまで幾度となく連れ帰ろうかと思い車を停めてみるが、生後数か月を過ぎた幼い猫や成猫は、警戒して逃げてしまう。近寄って来てはくれないし、暗闇の中では諦めざるを得ない。目撃してから数日間は、見かけることもあるが次第に姿を見なくなる。

もうこれ以上猫を飼うことは経済的に止めておかないと、と頭では分かっている。そう思い込み飼えないとしながらも、捨て猫を見かけるとつい車を停めてしまう。

 

猫を捨てる人は、どんな思いでここまで来るのだろう。別れ際はさぞ辛かっただろうし、別れた後、しばらくは車を運転しながら涙が出ただろう。ハンドルを揺さ振り悔やんだことだろう。その後も、自分が捨てた猫はどうなったのだろうと思い返すことがあっただろう。道路で車に轢かれた猫を見るたびに猫を捨てたときを思い出して、胸が潰れる思いをするだろう。

 

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